誤解を生むのが恐いのですが、なんだか近頃妙に思い出される昔話をひとつ。
今からもう、15年以上前、まだ岩手県盛岡市で働いていた頃の話です。私が勤めていたのはS社といって、コンピューター(当時オフコンともいっていました)のプログラムを製作する会社でした。会社とはいえ社長の下には従業員が4・5名しかいない零細企業です。
その頃の同僚に、Dさんという女性の方がいました。Dさんは私よりも3歳年上で、会社のそばのアパートでお姉さんと二人暮しをしていました。無口で愛想が無く、決して美人とはいえない人でしたが、妙に余韻を残すような人でした。仕事振りも微妙な人で、簡単な仕事を長い時間をかけて中途半端にこなす程度。特技があるわけでもなく、気が利くわけでもない。向上心も希薄で、日々お茶を濁して給料が貰えれば良いという姿勢だったと記憶しています。かく言う私も似たり寄ったりでしたが、ここではまあどうでもいいことです。
ある時、Dさんと同居していたお姉さんが病気で亡くなってしまいました。何の病気だったのかは失念してしまいましたが、確かにDさんの口からお姉さんが大きな病気をしているとは聞いていたので、とうとう亡くなったか、と社員同士でうなずき合ったのを覚えています。
さて葬儀となり、会社としても誰も出席しないわけにもいかないので、副社長と私が出席する事になりました。副社長は当時36歳で、私は21歳。どちらも世間の常識には疎い年齢です。部下や同僚の身内が亡くなったというのに、神妙さの欠片も無く、ましてや死者への慰霊の気持ちも薄かったと思います。葬儀が行われるのは盛岡からは大分離れたDさんの実家のある山奥の町。実際の町名は都合により書けません。
葬儀の日は、天気も良く、仕事もひと段落着いていた私と副社長は、半ばドライブ気分で車を走らせました。運転手を勤めていた私は、岩手の地理には暗いため、副社長の指示に従うばかりです。現在はどうなっているのか知りませんが、当時の岩手は盛岡から少し離れるとすぐに人里離れた風景が広がり、絵に描いたようなのどかな風景が現れるような按配でした。
のんびりとした風景と好天が、これから葬儀に向かう二人とはあまりにも対照的でした。そもそも、2人とも正直なところを言えば、ただもう面倒くさいだけ。人の死を悼むには、お互いまだまだ経験不足な人間だったのです。 ふと、副社長がこんな話を切り出しました。
「これから行く場所はな、いわゆる部落さ」
「は?部落?」
部落、と聞いて反応するような知識は私は持ち合わせていませんでした。さらに東北地方では関西ほど「部落差別意識」が浸透していないため、副社長が差別的意味で「部落」と言った事に反応するだけの下地がなかったのです。
「穢多とか非人って聞いたことあるだろ」
「そういえば、歴史の時間に習ったような気もしますね」
「つまり、そういう人たちが住んでいた場所ってことさ」
「それがどうかしたんですか?今の時代には関係ないことでしょう」
「俺も聞いた話さ。でも、かなり変わった風習だってさ」
それきり副社長はその話題には触れずに、後はさも無い話に終始しました。
やがて目的地が近づいてきたのですが、2人は少し言葉を失ってしまいました。見渡す限りの山に囲まれた中に一本の細い道があり、その奥に奥にと向かって車を走らせるのですが、一向に人家が現れない。Dさんに貰った地図では間違いなくこの道を直進せよ、となっているのですが、その地図が信じられなくなるほど、心細い道なのです。途中、副社長は何度も「車を止めろ、車を止めろ」と命じ、その度に車外へ降りては無限に続こうかという道の遥か先を絶望的な眼差しで見つめていました。私としても、これほどの田舎道を走ったこともなく、副社長以上に不安でいっぱいでした。
お互いに不穏な気分のまま一山越え、二山越えたあたりで、ようやく「D家こちら」という参列者用の道しるべを見つけました。その道しるべによると、これまで走ってきた道からさらに細いわき道へ入れとのこと。指示に従ってハンドルを切ると、あっけにとられるほどの急勾配が待ち受けていました。急勾配は蛇のうねりの如く伸びていて、右に左にとハンドルを切るうちに、気分が悪くなってきました。そうしてようやく一軒の家に出くわしました。しかしそこは人気がなく、いかにも葬儀のために出払っている風情。やや行くとまた一軒、さらに行くとまた一軒、同じ風情の家。
不安の中にも、この辺で間違いが無いという手応えがあり、少し自信を持ち始めた頃、ようやく目的の家に辿り着きました。大勢の人が集まり、いかにも葬儀らしい飾り付けに纏われた古い小さな農家でした。 喪服姿で出迎えたDさんは、いつもの通り無愛想でしたが、泣きはらした後の赤く腫れぼったい目をしていました。
「この度はムニャムニャ」と知ったかぶりの挨拶をしているうちに、始まるよ、と誰かに声を掛けられ、私達は慌てて玄関へ上がりこみました。家の中には、大勢の人がいましたが、家族以外は誰も悲しんでいる様でもなく、老いたご両親と残された2人の姉妹が小さくなってさめざめと泣いているばかりでした。
私達は一番後ろの席に隠れるように正座しました。その時、私の脇腹を副社長がツンツンと付きました。私が顔を上げると、アレを見ろ、と小さく顎で祭壇を指しました。
見るとそこには、時代劇で観るような丸い棺桶。そう、まさに棺「桶」。普段私達が言っている棺桶は、人が横臥した状態で収められる「棺」。言ってみれば西洋式です。しかしそこにあったのは、座った状態で(体育座り)収められる和式の丸い「棺桶」です。その棺桶が、色とりどりの紐で飾るように縛られ、まつられていたのです。
葬儀は至って簡単で、細かい部分はすっかり失念していますが、手から手へ焼香が回ってくる形式の一般的なものだったようにうっすらと記憶しています。
もっとも副社長は、帰りの車中で、「変わった葬式だったなあ」とも言ったように憶えているので、何か変わったこともあったのかもしれません。
読経が終わると、葬儀を仕切っているらしい親戚の某氏だという人が前へ進み出て、「葬儀は以上で終了である。わざわざ遠くからお越しいただいた会社の方々には申し訳ないが、これから先は内々のしきたりでするべきことがあるから、早々に引き取ってくれ」という事を言われました。
私達のほかにも列席していた会社関係の人間(恐らく姉妹の誰かの勤める会社だと思われる)は、まあそういうことならと、そそくさと席を辞しました。もとより縁遠い葬儀ですから、無理に引き止められるよりもかえってありがたい言葉ではありました。
義理で列席した人々は、誰も彼も素早く車に乗り込み、あっという間に姿を消しました。私達は一番最後に到着したため、かなり離れたところに駐車していた為、皆が去った後、ようやく細い道へ乗り出すことが出来ました。
その時、ふと家を見ると、家の裏から伸びた獣道のような急な坂道を行く遺族達の姿を見つけました。棺桶の紐に太い担ぎ棒を差込み、幾人かで更に山の奥へ向かって登り出していました。窓を開けてその様子を見ると、何か歌を歌いながら、ゆっくりとゆっくりと山の頂上を目指すように歩いていました。
その歌は、死者を弔い担ぎ手を励ますかのような暗く悲しく力強い印象を与える歌で、歌の節々に時折混じる鈴の音が風に乗って山の隅々まで響き渡るようでした。微かに見える列の後ろを行くDさんの姿が、まるで別世界に住む住人のように見えました。
「あんな山の上に、火葬場があるんですかね」
ふと疑問が生じて何気なく副社長に問いかけると、
「馬鹿、あんな棺桶の入る炉があるか」と即答されました。
「土葬だよ」
と更に念を押すように言った副社長の目に、差別意識とは違う複雑な何かを感じました。それはまるで、普段の愚鈍な仕事振りをもまとめて唾棄してDさんに届けようとしている荒んだ副社長の心情を表しているようにも見えました。
まさか。始まったばかりとはいえ、平成のこの時代に、土葬なんて許可が下りるはずが無い。部落だ何だという差別意識があるから根も葉もないことを言っているのだと思いました。
しかしまた一方では、こんな山奥で、行政もへったくれも行き届きそうも無いし、確かに火葬場も無さそうな山の頂上で何が行われたところで不思議ではないかとも思いました。
今思うに、そこに住む人々が何処の誰で何の謂れの人であろうとも、幾年経っても風習のままに生きている様というのは何と魅力的な事かと思うのです。日々移り変わる世の慣わしを常識として、追いかけるようにあるいは流されて生きるよりは、よほどまっとうな人間らしく感じます。
あれが本当に土葬だったのかそうでないのかは、今となっては分からないことです。むしろこんな話を書くと、「それは私らの地区の話か」とお叱りを受けるかもしれませんが、私の心情としては、あれは絶対に土葬であったと思いたいのです。
そう思うことで、実はまだ生きている「根の深いもの」に出会えた事を素直に喜びたいからです。
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